プロフェッショナルな仕事を行うために人格は問われるべきか?

詳細は分かりませんが東京オリンピックの音楽担当が過去のハンディキャップを持った人への虐めの問題でSNS上で炎上しているようです。

虐めた人はわたしと同年代なので分かるのですが、その当時の学校では虐めや差別が、結構あった印象を受けています。

わたしが通っていた小中学校の隣に、養護学校(特別支援学校のこと)がありましたが彼らに対して一部ですが生徒だけでなく先生も差別的な発言をしていた記憶があります。

また通っていた高校の近くに外国系の学校があったのですが、進学校にも関わらず平気で差別的な発言をする人が結構いました。

今回の件は音楽担当を辞退する方向で話しが進むのかもしれませんが、どの程度まで過去の出来事について道義的責任を問われるべきかという問題が生じます。

性格的に偏っていたり、人格的に問題があるものの、ある分野で突出した才能を発揮する人達がいます。

わたしは例えば外科手術を受ける際に人格的に優れている並の外科医か人格的に破綻しているものの手術の技術に定評がある外科医のどちらかを選ぶとすれば間違いなく後者を選びます。

また灰色の部分があるものの国民の利益のために汗を流す政治家とサラリーマン的な一般的な政治家のどちらかを選挙で投票すべきかという問題にもつながります。

今は社会的な格差が広がり、国民はストレスを抱えていることもあり、政治的に正しいこと、行いとして正しい振る舞いをしないとSNSなんかで袋叩きにあってしまいます。

わたしはNHKの「ダーウィンが来た!」という番組が好きでよく見ているのですが、動物の社会では間違いなく弱肉強食の社会です。

いまの社会の風潮だとお互いがお互いの足を引っ張り合って、社会的な競争力を失ってしまいます。

目指す方向性はより寛容な社会ではないでしょうか?

それは過去に失敗をした人達が再チャレンジを閉ざされていない社会であり、人としてのバランス感覚が欠けていても特定の分野で突出した成果を出している人に対しては温かい目で見守る社会です。